私たちが何気なく使っている1万円札、5千円札、千円札。
一見すると高度な印刷機械によって作られているように思えますが、日本の紙幣づくりの根幹には、今も人の手による緻密な職人技があります。
その象徴ともいえる存在が、国立印刷局の「工芸官」です。
お札の肖像などに使われる原版は、専門の職員が特殊な彫刻刀を使い、金属板へ一本一本手作業で線を刻んで作ります。最新のデジタル技術や3Dホログラムが導入された現在でも、この高度な彫刻技術は日本の紙幣を支える重要な技術の一つです。
2024年7月3日には、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎を肖像に採用した新しい日本銀行券が発行されました。
世界初となる銀行券への3Dホログラム採用など最新技術が注目されましたが、その裏側には、150年以上受け継がれてきた日本独自の紙幣製造技術があります。
紙幣の彫刻師「工芸官」とは

国立印刷局には、お札のデザインや原版彫刻を担当する専門職員がいます。
現在、公式には「工芸官」と呼ばれています。
紙幣の原図を描く工芸官は、色鉛筆や絵の具などを使って精密なデザインを作成します。
そして、その原図をもとに原版を制作する工程では、「ビュラン」と呼ばれる特殊な彫刻刀を使い、金属板へ点や線を一本一本刻み込んでいきます。
機械が自動で肖像を彫刻しているわけではありません。
人間の手によって、線の太さや深さ、向きなどを細かく調整しながら、人物の表情や髪、衣服、陰影まで表現していくのです。
1ミリの幅に10本以上の線を彫る驚異の技術
紙幣の彫刻がどれほど細かいのか。
国立印刷局によると、工芸官はわずか1ミリの幅に10本以上の線を彫刻できる技術を持っています。
髪の毛ほどの狭い範囲に複数の線を刻みながら、
- 線の太さ
- 線の深さ
- 線同士の間隔
- 彫る方向
- 線の密度
を変えることで、人物の立体感や肌の質感、光と影まで表現します。
単に「細い線を彫ればよい」という仕事ではありません。
肖像画は、線の位置や角度がほんの少し変わるだけでも人物の表情が違って見えます。
そのため紙幣の原版制作には、彫刻技術だけでなく、デッサン力や観察力、芸術的な感覚まで求められます。
なぜ今でも紙幣を手作業で彫るのか
コンピューターやAIが発達した現在、「なぜわざわざ人間が手で彫るのか」と疑問に思う人もいるでしょう。
その大きな理由の一つが偽造防止です。
工芸官が手作業で作り出す細かな画線は、一般的なプリンターやコピー機では簡単に再現できません。
さらに国立印刷局では、手彫りの原版だけでなく、コンピューターで作られる幾何学模様「彩紋」など、さまざまな技術を組み合わせて紙幣を設計しています。
つまり日本のお札は、
伝統的な職人技 × デジタル技術 × 印刷技術
を組み合わせて偽造を難しくしているのです。
1枚の原版から大量の紙幣が作られる

工芸官が紙幣一枚一枚を彫刻しているわけではありません。
まず、紙幣の元となる精密な原版を制作します。
完成した原版をもとに、紙幣を大量に印刷するための大きな「版面」が作られます。印刷時には強い圧力がかかるため、耐久性を高めるための加工も施されます。
つまり、
原図を作る
↓
金属板に原版を彫刻する
↓
原版から印刷用の版面を作る
↓
大量の紙幣を印刷する
という流れです。
最初の原版のわずかな違いが、その後に作られる大量の紙幣へ反映されるため、極めて高い精度が要求されます。
新しい紙幣にも受け継がれた職人技
日本では2024年7月3日、一万円札、五千円札、千円札の3券種が約20年ぶりに改刷されました。
新しい肖像は、
1万円札:渋沢栄一
5千円札:津田梅子
千円札:北里柴三郎
です。
今回の改刷では最新の偽造防止技術が導入されましたが、肖像をはじめとした緻密な表現には、長年受け継がれてきた工芸官の技術も生かされています。
最新テクノロジーだけでお札が作られているわけではないところが、日本の紙幣づくりの大きな特徴です。
世界初「3Dホログラム」で肖像が回転して見える
新紙幣でも特に注目されたのが、3Dホログラムです。
紙幣を傾けると、ホログラムの中に浮かび上がった人物の肖像が立体的に回転しているように見えます。
国立印刷局と日本銀行によると、この技術が銀行券へ採用されたのは世界初です。
一万円札と五千円札にはストライプ型、千円札にはパッチ型のホログラムが採用されています。
特殊な設備や技術がなければ再現することが難しく、偽造防止性能を高める重要な仕組みとなっています。
日本のお札を守る「高精細すき入れ」
もう一つ、新紙幣で進化した技術が「すき入れ」です。
一般には「すかし」と呼ばれるもので、紙幣を光にかざすと肖像などが浮かび上がります。
日本のお札では従来から高度な白黒すかし技術が使われてきました。
新紙幣では従来のすき入れに加えて、肖像の周囲に緻密な連続模様を入れる**「高精細すき入れ」**が採用されています。
紙の厚さなどを精密に調整して模様を表現するため、単純に印刷しただけでは再現できません。
国立印刷局によれば、日本のお札には「みつまた」やアバカなどを原料とした特殊な用紙が使われています。みつまたは明治12年(1879年)からお札用紙の原料として使われており、現在にも伝統が受け継がれています。
ほかにも多数ある日本紙幣の偽造防止技術

日本のお札には、3Dホログラムやすき入れ以外にも複数の偽造防止技術が組み込まれています。
代表的なものが、
- 凹版印刷
- 深凹版印刷
- マイクロ文字
- 潜像模様
- パールインキ
- 特殊発光インキ
などです。
例えばマイクロ文字では、肉眼では確認しにくいほど小さな「NIPPONGINKO」などの文字を印刷しています。
カラーコピー機や一般的なプリンターでは細部まで正確に再現することが難しいため、偽造防止につながります。
紫外線を当てると日本銀行総裁印や図柄の一部が光る特殊発光インキも使用されています。
つまり一枚のお札の中に、簡単には真似できない技術が何重にも組み込まれているのです。
紙幣は「印刷物」ではなく技術の集合体
普段何気なく手にしているお札ですが、その製造工程を知ると、単なる紙の印刷物ではないことが分かります。
紙の原料から始まり、
デザイン
↓
原版彫刻
↓
デジタル製版
↓
印刷
↓
ホログラム
↓
各種検査
↓
断裁・仕上げ
という数多くの工程を経て完成します。
しかも、その中にはデジタル技術だけでは置き換えられない、人間の経験と技能を必要とする工程があります。
紙幣は、「伝統工芸」「印刷技術」「セキュリティ技術」が融合した製品ともいえるでしょう。
日本の紙幣技術は150年以上受け継がれている
日本の近代的な紙幣製造の歴史は明治時代にさかのぼります。
国立印刷局は1871年に創設され、その後150年以上にわたって紙幣製造に関する技術を蓄積してきました。
現在の紙幣にも、明治以来受け継がれてきた白黒すかしや凹版彫刻などの技術が生かされています。
一方で、新紙幣では世界初の3Dホログラムを導入するなど、最新技術も積極的に取り入れています。
古い技術をただ守っているのではありません。
残すべき職人技を継承しながら、新しい技術を組み合わせて進化させる。
それが日本の紙幣づくりの特徴なのです。
キャッシュレス時代でも紙幣の技術が必要な理由
クレジットカードやQRコード決済、スマートフォン決済が普及し、私たちが現金を使う機会は以前より少なくなっています。
それでも、紙幣がすぐになくなるわけではありません。
現金には、
- 電源や通信環境がなくても利用できる
- 幅広い年代の人が利用できる
- 災害やシステム障害時にも利用しやすい
- 受け取ったその場で支払いが完了する
といった特徴があります。
そのため、キャッシュレス化が進むほど、「必要なときに安心して使える紙幣」の信頼性を維持することも重要になります。
そして、その信頼を目に見えないところで支えているのが、国立印刷局の技術者や工芸官たちです。
まとめ|一枚のお札に詰まった、日本の職人技と最先端技術
日本のお札には、私たちが普段気づかないほど高度な技術が詰め込まれています。
中でも象徴的なのが、紙幣の原版を手作業で彫刻する工芸官です。
特殊な彫刻刀「ビュラン」を使い、わずか1ミリの幅に10本以上もの線を刻みながら、人物の表情や質感を表現します。
一方、2024年に発行された新紙幣には、世界初の3Dホログラムや高精細すき入れなど最先端の偽造防止技術も導入されました。
人間にしか生み出せない超精密な職人技と、最新のデジタル・セキュリティ技術。
この二つを組み合わせることで、日本のお札の信頼性は守られています。
財布の中にある一枚のお札をじっくり眺めてみると、これまでとは少し違って見えるかもしれません。
