<仙台いやすこ歩き>(102)箪笥料理/心躍る伊達なもてなし

青葉もりもりの季節。

雨上がりの朝、いやすこが目指したのは杜の都の「伊達な食事」だ。仙台駅前からバスで秋保温泉行きに乗り、太白区茂庭の「茂庭荘入口」に降り立った。そこから電話で送迎マイクロバスに来てもらう。車中、「今は緑が美しいですよ。専任の庭師もいて、奇麗にしているんです」といった話を聞いているうちに、見えてきた建物こそ「旧伊達邸 鐘景閣(しょうけいかく)」。ここは明治時代から戦後まで、伊達家の当主が屋敷として使用していた建物であり、そんな伊達なる所で食事をいただくというわけなのだ。

車から降りながら「わぁ~、いいねえ」と歓声。青葉の山並みを背景に、黒々とした瓦ぶきの建物が歴史と品格を漂わせている。仲居さんに教えられるままに、庭に回れば、枯れ山水の庭には美しい砂の文様。庭の先は名取川の清流だ。京都の名刹(めいさつ)にでも瞬間移動したような気分になる。

2人は早速内部も見学。小書院の隣に武者隠しがあったかと思うと、ご婦人のワイヤードレスに合わせた階段の幅広いこと。江戸時代の大名建築に文明開化の薫りも加わった、特色豊かな造りに興味は尽きない。

迎えてくれた支配人の浮津秀逸(うき つしゅういつ)さん(55)の案内で通されたのは居間書院の間。「ここは1997(平成9)年に現在の上皇・上皇后さまご夫妻のご休憩所となったところです」の言葉にびっくり。なんとなんと、仙台市指定有形文化財でもある建物で食事ができるだけでもすごいのに、そうした由緒あるお部屋も提供されているとは。

明治期の匠(たくみ)たちから守り継ぐ美意識に満ちた空間に、いよいよ、鐘景閣の食事を代表する箪笥(たんす)料理が運ばれてくる。料理は、建物が宮城県沖地震後に移築され、食事を楽しめる施設となった当初、仙台らしい御膳として考え出されたそうだ。「提供の仕方は多少変わりましたが、伝統的工芸品である仙台箪笥を用い、宮城の旬の山海の幸を使った料理の提供は35年以上続いています」と浮津さん。

塗り、金具の重厚感はそのままに、ミニサイズの仙台箪笥の引き出し一つ一つに料理が入り、さらにお刺し身、焼き物、揚げ物などが盆にのせられて供される。一体、何品なのだろう。親方をはじめ料理人たちが丹精込めて作る、一品一品の味わい豊かなこと。

雨上がりの緑をガラス越しに見ては、目の前の料理に舌鼓を打ち、また、魂を込めて手入れするという枯れ山水の庭に目をやる。「街中では味わえない特別感があるよね」と、画伯もうっとり。

場も食もこんなに上質なのに、ゆったりくつろげるのはどうしてだろう。「構えなくていい、それが伊達流のおもてなしだと思っています」という浮津さんのひと言に、心底納得させられた。献立の「食べ方」にも、「お料理の食べ方の順はお客様でお決めくださいませ」の一文が。そしてもう一つ、仲居さん、運転手さん、庭師さん、みんなが誇りを持って仕事をしているのが、心地いいのだ。いいな、また来たいものだ。そこで一句。<目に青葉 山ほととぎす いやすこ絶好調>字余り。

◎100年超の歴史誇る鐘景閣

「旧伊達邸 鐘景閣」は、明治維新後に華族となり伯爵の位を授けられた伊達家の旧邸宅である。1905(明治38)年、仙台市一本杉(現在の若林区一本杉町)に建造され、戦後まで伊達家が使用していた。81(昭和56)年に解体し、現在地に移築・復元された。

木造平屋一部2階で、700平方メートルを超す広い面積。建築資材も樹齢200年以上の上質の杉材、窓には明治30年代の日本製の手作りガラスなど吟味されたものが用いられている。

設計監督に当たったのは、ウィーン万博での神楽殿の設計監督も務めた第一級の建築技術者・山添喜三郎。宮城県の技師として、国重要文化財である旧登米高等尋常小学校校舎(登米市)なども手掛けている。

鐘景閣は47(昭和22)年、昭和天皇の東北巡幸の際のご宿泊所に、97(平成9)年には現在の上皇・上皇后ご夫妻が、白石市での全国植樹祭に行幸啓された際の休憩所となった。

鐘景閣の門の前には仙台市保存樹木の名木・鐘景の松がある。

土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。

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