鬼子母神堂で買える郷土玩具「すすきみみずく」、その消滅危機を食い止める人たちがいた

最後の職人は廃業、住職が存続に立ち上がる

作りたてのすすきみみずく(宮崎佳代子撮影)

 記者は幼少の頃、母に連れられて雑司が谷の鬼子母神堂へお参りにゆき、そこで祖父の健康祈願に「すすきみみずく」と呼ばれるお守りを買ったことがあります。

「すすきみみずく」はその名のごとく、ススキで作られたミミズク。穂が毛羽立った体毛のような質感をたたえ、ふっくらとした胴体に、大きな目。愛らしくも、夜に暗いところで見ると、子どもの目にはちょっと怖くもありました。

 東京の郷土玩具について調べている際、インターネットで何十年ぶりにすすきみみずくの写真を目にした記者。しかし、記憶にあるものとは雰囲気が異なったため、調べてみると、最後の職人だった音羽家の岡本冨見さんが2010(平成22)年に廃業していたことが分かりました。

 そのため、鬼子母神堂を所有する開創810年の法明寺(豊島区南池袋)の住職が「すすきみみずく保存会」を立ち上げ、会のメンバーで制作と製作講習を行っているとのこと。もう昔と同じすすきみみずくを目にすることはできないのか――そんな一抹の寂しさを抱きながら、記者は話を聞きに法明寺を訪れました。

作り方を教えようとしなかったみみずくの職人たち

 すすきみみずくは東京の郷土玩具であるとともに、安産や子育(こやす)、健康守りとしても親しまれている参詣土産です。雑司が谷の鬼子母神詣での模様を描いた江戸期の図版や浮世絵などにも登場し、江戸名物であったことがうかがい知れます。

 法明寺ですすきみみずく保存会の会長を務める近江正典住職と、副会長の長島秀臣さんに、会を設立したいきさつを聞きました。

 すすきみみずくの後継者難は、昭和40年代すでに深刻な問題として新聞でも報じられていました。その一方で、職人たちは作り方を他人に教えたがらなかったといいます。そしてついに職人がいなくなり、近江住職が急いで作れる人を探すなか、長島さんを紹介されたそうです。

 長島さんはもの作りを趣味としていて、かつて音羽家の岡本さんにみみずくの作り方を教えて欲しいとお願いし、断られたという経緯がありました。近親者に作り方を知っている人を見つけ、教えてもらったのが、2005(平成17)年頃のことと話します。

住職が守り続けたかった「すすきみみずくの真の存在意義」

雑司が谷の鬼子母神堂(宮崎佳代子撮影)。

 制作者が見つかり、近江住職は保存会を設立しましたが、課題は山積み。まずススキの確保が必要でしたが、大量に、しかもこれまでと同質のものとなると、そう簡単には見つかりません。さらに、刈った1年分のススキを1週間干すスペース、皮剥きや制作を行う場所、完成したみみずくをストックする倉庫も必要です。ススキ刈りやみみずくを結びつける竹刈りなどの作業にボランティアの確保も欠かせませんでした。

 紆余曲折の末に、ススキの調達は豊島区の姉妹都市である秩父市の協力を得て、同市にある山に決定。作業所は檀信徒(だんしんと)会館を使うことになりました。ボランティア10人でのスタートだったといいます。

 ススキ刈りは三分咲きのうちに行わなければならず、時季はまだ残暑の厳しい9月15日前後。初回の2010(平成22)年は、「伸び放題で背丈より高いススキを刈るのに、大汗をかきながら、大変な労力を要しました」と、近江住職は当時の苦労を振り返ります。

 そこまでして、住職自ら先頭に立って奔走した理由は、みみずくの縁起となった民話に込められたメッセージにあると話します。民話の内容は次のようなものです。

少女の夢に現れた蝶のお告げ

 昔、“おくめ”という女の子がいました。父を亡くし、母とふたり暮らしをしていたある時、母が病にかかってしまいます。おくめは母の病が治るよう、雑司ヶ谷鬼子母神にお百度参りを始め、迎えた満願の日。疲れ果てて向拝(拝殿正面下)の階段で居眠りをしてしまいました。

 すると、夢のなかで目の前に蝶が飛んできて、ススキの穂でみみずくを作って参道で売るように告げます。目を覚ましたおくめがお告げの通りにしたところ、みみずくは飛ぶように売れ、そのお金で薬を買って母親の病は無事治癒したのでした。

「この民話のなかで、鬼子母神は神通力で母親の病を治してあげてはいません。そこに大きな意味があり、願いに対する『自助努力』の大切さを伝えているのです。『神の救いは自ら努力する人に差し伸べられる』と先人がみみずくに託した精神を、後世に残す必要がある。その想いから、私はこの保存会を立ち上げました」(近江住職)

 初回は10人だったボランティアも回を重ねるごとに増加し、2017年のススキ刈りには、暑い最中にもかかわらず豊島区職員や地域の人びとが60人参加。皮剥きや竹刈りの作業もそれぞれに、地域のボランティアの人びとに支えられているそうです。

 長島さんの作ったみみずくは、愛らしく、ふっくらときれいに出来上がっていました。職人と同じみみずくを作ろうとするなかで一番苦労したのは、「目」だったと話します。素材がわからず、どうにか「キビがら」と突き止めたものの、丸形に切って乾燥させると星形になってしまいました。さまざまな地域から材料を取り寄せて使ってみても、どれも乾かすと同じように変形が発生。職人たちがどうやって変形を防いでいたのか分からず、現状では木を使っているそうです。

 それにしても、なぜ職人たちはみみずくの作り方を教えなかったのでしょうか。はからずも、その疑問の答えを知ることになるのは、「子どもの頃に見たみみずくをもう一度目にしたい」との想いにかられ、亡き職人たちのみみずく探しを始めたことからでした。

10年修行を積んでも「まだ、人様に売りに出せない」

上川口屋の川口雅代さん(宮崎佳代子撮影)

 雑司が谷鬼子母神堂の境内に、江戸期創業の駄菓子屋「上川口屋」があります。かつて、ここでもすすきみみずくを売っていたと聞き、13代目店主の川口雅代さんに当時の話を聞きました。

「腕のいい飯塚さんという職人さんがいてね、その人のみみずくだけをここで売っていました。飯塚さんはお姑さんから、10年作り続けても『まだ、そんなものは人様に売りに出せない』と言われるくらい厳しく腕を磨かれて。絶対に作り方を他人に教えなかったから、同じものを作れる人が現れることはないでしょうね」(川口さん)

 そう言いながら、引き出しから飯塚さんが作ったすすきみみずくを取り出して見せてくれました。20年前に作られたものにもかかわらず、形が全く崩れておらず、穂を束ねる紐の強固な縛り具合など、職人仕事と分かるものでした。

 近江住職や郷土資料館などから情報を得ていた職人は飯塚さんと岡本さんのふたりだけ。しかし、そのどちらの作風も記憶とは違っていたため、昭和40年代、他にも職人がいたのではないかと思い、調べました。

明治の女手が紡いだ、威厳と優しさが共存するみみずく

 インターネットで片っ端からすすきみみずくの画像を探すなか、1枚のおばあさんの白黒写真を見つけました。それを手がかりに、『明治を伝えた手』(朝日新聞社)という写真集を発見。そこに吉田すずさんという職人紹介が載っていました。

 吉田さんのすすきみみずくは、胴体の膨らみが豪快なまでにふっくらと丸みを帯びたもの。ちょっと怖い表情で、記憶にあるものに近いと感じました。

 本の内容から、吉田さんの生まれは明治前半から半ば。写真集には、「六十年これを手掛けてきた」「若いお嫁さんが、十年やってこの丸みはとても出ないという」「雑司ヶ谷鬼子母神の宝もののような人だ」と書かれていました。明治の女手が紡いだみみずくは、威厳と優しさが共存する力強いものでした。

 そして、この吉田さんの写真集との出会いによって、ついに記者が探していた、懐かしのみみずくにたどり着くことになるのです。

 長島さんに吉田すずさんの存在を話したところ、法明寺にあった古い資料で、わずかとなったみみずくの職人の氏名が書かれた資料を探し出してくれました。そこで初めて目にした名前が、大沢巻太郎・みね夫妻。

 その資料には、すすきみみずくの後継者難を伝えた複数の新聞報道の日付が記されていました。そのひとつ、1972(昭和47)年4月15日刊の朝日新聞東京版を調べたところ、巻太郎さんのすすきみみずくの写真が掲載されているのを発見。記憶より感覚が先立って懐かしさを覚え、胸が一杯になりました。記者の母と複数の親族にも確認して、祖父に購入したみみずくは大沢夫妻のものだろう、との結論に達しました。

後継者になるために職人が示した4つの条件

 巻太郎さんは、江戸時代から鬼子母神の境内で茶屋を営んできた家の出自で、その5代目。大正の頃からすすきみみずくを作り始めたそうです。すすきみみずくを吊るした笹の先端部には、蝶(民話に出てくる鬼子母神の化身)がついていました。近江住職はこの蝶を「昔はついていた」と先代から聞き、復活させたと話していましたが、昔のすすきみみずくには確実に蝶がついていたこと、縁起を忠実に再現していたことが分かります。

 新聞記事には、巻太郎さんが後継者難を憂い、「時々、若い人が作り方を教えてとやってくるが、喜んで教えてやると2日もするといなくなってしまう」「全国でみみずくのまがい物が出回っていて、自分が教えた若者が作ったのではないかと嫌な気持ちになる」と語っていたことが書かれています。そして、教える条件として「近くの住人で毎日通う」「趣味でなく本気で」「今の型を受け継ぐ」「入れ歯でない(歯を使って紐を結べないため)」の4つをあげていました。

 職人たちがみみずくの作り方を教えなかったのは、趣味程度に数日習っただけで、型を受け継がずに自分勝手なまがい物を作って売られると、みみずくの評判と伝統をけがすことになる。趣味ではなく、本気で職人になろうとしている人にしか教えてはいけないと、皆が思いを同じくしたのでしょう。

 現在、保存会では年に一度、南池袋小学校の4年生にみみずく制作の体験学習を実施しています。4年生は民話のおくめと同じ年。「みみずくの精神」と一緒に教えているといいます。

 伝統産業は全国的に熟練職人が減る一方で、原料が手に入らなくなったり、値が高騰したりして、伝統製法そのままに受け継げなくなったものもたくさんあります。そのなかで大切なのは、形や原料が変わっても、その本質を守り、意義を次世代に伝えていくこと。

 すすきみみずくも、住職はじめ地域の人びとによって守り続けられる限り、その本質を失うことなく後世へと引き継がれ、人々に笑顔をもたらしてくれるのではないでしょうか。

元記事はこちら

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