信念持ち器と向き合う 砥部焼に「唐草模様」 故工藤省治さん「したたか」に美学表現

窯元「梅野精陶所」で、絵付けをする工藤省治さん。砥部焼を通じて、自らの美学を表現した=2016年6月、砥部町大南

1978年、砥部町を訪れた司馬遼太郎は、その地で作られた磁器を「したたかなものだ」(「街道をゆく 南伊予・西土佐の道」)と評した。この言葉に引かれ、足跡を追った学生時代。たどりついた先に、10月に逝去した砥部焼陶工、工藤省治さんがいた。

砥部焼を通じて、自らの美学を表現した人だった。絵画を学ぶ中で陶芸を志し「絵付けができると聞いた」砥部町へ57年に移住。最大の窯元である「梅野精陶所」で、陶石の鉄分を削り取る下働きから始めた。

当時の砥部焼は戦争で技術が失われ、工芸品に伝統美を復活させようとする「民芸運動」を旗印に産地再興を目指し、外部の関係者が絵付けを指導していた。しかし工藤さんは自らの手による新たなデザイン創出にこだわった。「受け身だったら今の俺はいない。信念を持って、能動的に、猛烈に働いた」。

手がけたあまたのデザインは、自身の名は冠さず「梅」の窯印で全国へ広まった。72年に工藤さんが生んだ「唐草模様」は砥部焼の顔となったが、こうした砥部の新たな作風も、世間で流行していた「民芸」と同一視されていた。

そんな時に現れたのが司馬だった。梅野精陶所の工場や売店を見学していったが、後日雑誌に掲載された「街道をゆく」を読み、「したたか」の文字に心躍ったという。「砥部の新しい時代への独自の動きを見いだしてくれた。これはうれしかったね」と懐古する笑顔が忘れられない。

司馬は「花魁の衣装のように民芸風をあつがさねして商品化する傾向が、こんにちの名窯を軒なみに悪くしている。そういうものは、砥部焼の現状にはどうやら希薄なようで、ほっとする思いがした」とも記している。ただ民芸を模倣するのではなく、自らの意思で独自のデザインへと昇華させた砥部焼のたくましさ。それを司馬は「したたか」と表現したのだろう。工藤さんはこの言葉がとても気に入っていた。

近年は日本の手仕事が失われていくことへの危機感を抱いていた。機械製品や周辺産地との競合がもたらす衰退は、砥部焼も例外ではない。

加えて砥部焼は作風が多様化し続けており「砥部焼とは何か」との声も聞こえる。その定義を問いかけたことがある。しばらく考えた工藤さんの答えは「共通したデザインや作風ではなく、手仕事の人たちが自らの美学をしっかりした技術で表す焼き物」だった。

突然の訃報に、寂しさは尽きない。しかし町内には工藤さんの作品があふれ、何より「財産」と呼んでいた後進たちがいる。教わった技術や語り合った陶芸論は、それぞれの美意識で作る器の中で、工藤さんの面影を見せてくれることだろう。その中から、唐草を超えるような次世代の砥部焼が生まれると信じている。

それが工藤さんが考える「したたか」な砥部焼だと思うから。

工藤省治さんは10月26日に死去、85歳。

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